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鉄と記憶 第四話|ジープ・ラングラー ルビコン 白い闇を越えて

ジープ・ラングラー ルビコン 白い闇を越えて

喫茶店の窓の外には、まだ雪など降っていなかった。

冬の午後だった。
曇ったガラスの向こうを、車が何台か通り過ぎていく。
店の中には、古いストーブの匂いと、少し焦げたトーストの匂いが残っていた。

鉄平は、いつもの席でコーヒーを飲んでいた。
向かいには、さとしが座っていた。

二人は、もう長い付き合いだった。

学生時代からの友達というわけではない。
会社が同じだったわけでもない。
ただ、車が好きで、仕事先で何度か顔を合わせ、気がつけば月に一度ぐらい、こうして喫茶店で話す仲になっていた。

大げさな友情ではなかった。

誕生日を祝うわけでもない。
毎日連絡を取るわけでもない。
困った時にすぐ「助けてくれ」と言えるほど、素直な年齢でもなかった。

それでも、会えばいつも同じ席で、同じようにくだらない話をした。

さとしは、ジープ・ラングラー ルビコンに乗っていた。

大きくて、角ばっていて、どこか不器用そうで、
でも見るからに頼もしそうな車だった。

鉄平は、その車を見るたびに少し笑った。

「お前、ほんまに山でも登るんか?」

さとしはいつも、同じように答えた。

「登らんでもええねん。登れると思ってるだけで、気が楽なんや」

鉄平の車は、国産の四輪駆動ワゴンだった。

雪にも強い。
荷物も積める。
普段使いも楽。
仕事にも使える。

鉄平は、自分の車を信頼していた。

信頼していた、というより、
少しだけ頼りすぎていたのかもしれない。

その日、鉄平はコーヒーカップを置いて言った。

「次の土曜、雪野沢町まで行かなあかんねん」

さとしが顔を上げた。

「雪野沢町?」

「急ぎの仕事や。設備が止まったらしくてな。朝から行って、夕方には帰るつもりやけど」

さとしはスマートフォンで天気を見た。

「土曜、荒れるらしいで。山の方、雪や」

鉄平は窓の外を見て笑った。

「まあ、大丈夫やろ。俺の車、雪でも安心できるやつやし」

さとしは、少しだけ眉を寄せた。

「安心できる車でも、雪は安心させてくれへんぞ」

鉄平は笑った。

「出た。ルビコン乗りの上から目線」

「ちゃうわ」

さとしも笑った。

笑いながら、でももう一度だけ言った。

「ほんま、無理すんなよ」

鉄平が財布を出そうとすると、さとしが先に伝票を取った。

「今日は俺が払うわ」

さとしがそう言うと、鉄平は笑った。

「前もそう言うて、俺が払ったやろ」

「そうやったか?」

「そうや。お前、都合の悪い記憶だけ雪に埋めるな」

二人は笑った。

レジを出る時、さとしは言った。

「次はお前のおごりやぞ」

鉄平は片手を上げた。

「はいはい。雪野沢から帰ってきたらな」

その言葉が、あとになって二人の間に長く残ることを、
その時の二人は知らなかった。


土曜日の朝、雪野沢町へ向かう道はまだ静かだった。

空は重かったが、雪はちらつく程度だった。
鉄平の四輪駆動ワゴンは、濡れた道路を安定して走っていた。

山に近づくにつれて、道端の雪は少しずつ厚くなった。
民家の屋根は白く、畑はもう境目がわからないほどだった。

それでも鉄平は、まだ余裕があった。

このぐらいなら大丈夫。
いつもの冬道だ。
スタッドレスも履いている。
四輪駆動だ。
急がなければ、問題ない。

そう思っていた。

仕事は、思ったよりも厄介だった。

古い作業所の設備は、ひとつ直せば別の不具合が見つかった。
午前中で終わるはずが、昼を過ぎた。
昼で終わるはずが、午後になった。
午後で終わるはずが、外が暗くなり始めた。

作業所の窓の外では、雪が強くなっていた。

風が出ていた。
細かい雪ではなかった。
横から叩きつけるような雪だった。

作業所の年配の男が言った。

「今晩は泊まっていきなさい。山道は危ない」

鉄平は工具を片づけながら答えた。

「いや、帰ります。明日も朝から用事あるんで」

「今夜は荒れる。ここらの雪は、町の雪と違う」

「大丈夫です。車は雪に強いやつなんで」

年配の男は、鉄平の顔をじっと見た。

「車が強くても、人間が見えん道は走れんよ」

鉄平は笑ってごまかした。

「ゆっくり行きます」

外へ出ると、すでに車のフロントガラスには雪が積もっていた。
ワイパーを上げ、手袋で雪を払う。
エンジンをかけると、暖房の風が冷たい室内に少しずつ広がった。

鉄平はシートベルトを締めた。

まだ帰れる。

そう思った。

そう思いたかった。


山道に入って二十分ほどした頃だった。

雪は、もう景色ではなくなっていた。

白い壁だった。

ヘッドライトの先に見えるのは、道ではなく、光をはね返す雪の粒だけだった。
ワイパーは忙しく動いているのに、視界はどんどん狭くなる。

路肩がどこまでか、わからない。
センターラインはもう見えない。
カーブの角度も、道路の端も、暗闇と雪に溶けていた。

鉄平はハンドルを強く握った。

「ゆっくりや。大丈夫や」

声に出して言った。

誰もいない車内で、自分に聞かせるために。

タイヤが雪を踏む音が変わった。

重く、鈍くなった。

次の瞬間、車の右側がふっと軽くなった。

「あっ」

そう思った時には、もう遅かった。

車体が斜めに落ちた。
ハンドルを切った。
ブレーキを踏んだ。
けれど雪の上で車は止まらなかった。

鈍い音がした。

大木に、フロントがぶつかった。

身体が前に投げ出される。
シートベルトが胸に食い込む。
額の奥が白く光ったような気がした。

しばらく、音がなかった。

いや、音はあった。

風の音。
雪が車体に当たる音。
どこかで警告音のようなものが鳴っている音。

鉄平は、ゆっくり目を開けた。

フロントガラスの向こうは真っ白だった。
ライトは片方だけ、ぼんやり雪を照らしていた。
エンジンは止まっていた。

「……嘘やろ」

キーを回した。
かからない。

もう一度。
かからない。

室内灯がちらついた。
計器の明かりも不安定だった。

ドアを押したが、雪と傾きでうまく開かない。
身体を動かすと、左足に痛みが走った。

息が荒くなった。

鉄平はスマートフォンを探した。
助手席の足元に落ちていた。

画面は割れていなかった。
まだ電波はかすかにあった。

作業所に電話した。

つながった。

「すみません……山道で、落ちました。木にぶつかって……」

相手の声が変わった。

「場所は?」

鉄平は必死に説明した。
最後に通ったカーブ。
古い看板。
沢の音がしたあたり。
でも雪と暗さで、自分でも正確にはわからなかった。

相手は言った。

「今すぐ行きたいが、この雪ではこっちの車では上がれん。除雪もまだや。朝まで待てるか。今、消防にも連絡する。絶対寝るなよ」

絶対寝るなよ。

その言葉だけが、やけにはっきり聞こえた。

それから何件か電話をかけた。
けれど電波は不安定だった。
バッテリーも減っていた。

さとしの番号を開いた。

指が止まった。

こんなことで電話するのか。

あいつに何て言う。

「大丈夫って言ってたのに、やっぱりあかんかった」

そう言うのか。

鉄平は、結局発信しなかった。

その数分後、スマートフォンの画面は暗くなった。

雪は降り続いていた。

車内の温度が下がっていく。

息が白い。

鉄平は腕を組み、身体を小さくした。

寒い。
暗い。
痛い。
眠い。

「朝まで」

そうつぶやいた。

「朝まで待てば、誰か来る」

けれど、その「誰か」が誰なのか、
鉄平にはもうわからなかった。


同じ夜。

さとしは家でテレビを見ていた。

画面には、雪野沢町周辺の映像が映っていた。
道路は白く、車は立ち往生し、リポーターの声は風でかき消されそうになっていた。

「雪野沢町では、夕方から急速に雪が強まり――」

さとしは、ビールの缶を持ったまま動きを止めた。

雪野沢町。

鉄平が言っていた町だった。

次の土曜、急ぎの仕事で行かなあかん。

さとしはスマートフォンを取った。

電話をかけた。

呼び出し音は鳴らなかった。

すぐに留守番電話になった。

「……あれ?」

もう一度かけた。

同じだった。

さとしは眉を寄せた。

三度目をかけた。

つながらない。

喫茶店での鉄平の顔が浮かんだ。

まあ、大丈夫やろ。
俺の車、雪でも安心できるやつやし。

さとしは、作業所に電話した。
以前、鉄平から聞いていた会社名を検索し、そこから何とか連絡先をたどった。

何度か回されたあと、ようやく作業所の人につながった。

「鉄平さんなら、夕方に出ました。けど、そのあと山道で事故を起こしたらしくて……」

さとしの喉が詰まった。

「場所は?」

「はっきりとは。連絡は取れたんですが、途中で切れました。消防にも話してます。ただ、この雪で……すぐには」

「すぐには、何ですか」

相手は苦しそうに言った。

「夜の山道は危険です。朝まで待つことになるかもしれません」

さとしは黙った。

朝まで。

テレビの中では、吹雪が画面を白くしていた。

さとしは玄関に向かった。

上着を取った。
手袋を取った。
懐中電灯、毛布、スコップ、牽引ロープ、モバイルバッテリー、水筒。
思いつくものを次々に積んだ。

家族がいた。

「行くん?」

さとしは短く答えた。

「行く」

「危ないやろ」

「わかってる」

「ほな、なんで」

さとしは一瞬だけ黙った。

そして言った。

「あいつはな、“大丈夫”って言う時ほど、ほんまは誰かに大丈夫って言うてほしいやつなんや」

それ以上、何も言わなかった。

外に出ると、ジープ・ラングラー ルビコンは雪をかぶっていた。

大きなフェンダー。
角ばったボディ。
無骨なタイヤ。
普段は少し大げさに見えるその車が、その夜だけは違って見えた。

さとしは運転席に乗り込んだ。

エンジンをかけた。

低い音が、雪の夜に沈むように響いた。

さとしはハンドルを握り、前を向いた。

「頼むぞ」

小さく言った。

「勝たんでええ。あいつのところまで、連れて行ってくれ」


雪野沢町へ向かう道は、もう町の道ではなかった。

白い闇だった。

ライトをつけても、先は見えない。
ワイパーを動かしても、雪は次々に貼りついた。
横風で車体が揺れた。
路面の段差も、溝も、境目も、雪に隠れていた。

ルビコンは進んだ。

けれど、それは雪を蹴散らして進むというより、
雪に許しをもらいながら、一歩ずつ進むようだった。

さとしは何度も速度を落とした。
何度も止まった。
外へ出て、道を見た。
戻った方がいいのかもしれないと思った。

そのたびに、鉄平の声が浮かんだ。

帰ってきたらな。

次はお前のおごりやぞ。
帰ってきたらな。

さとしはハンドルを握り直した。

「まだ、おごってもろてへんぞ」

誰も聞いていない車内で、そう言った。

山道に入ると、状況はさらに悪くなった。

木々が風で揺れ、枝から落ちた雪がフロントガラスを叩いた。
道の端はもう見えない。
ガードレールも半分埋まっていた。

さとしは作業所の人から聞いた目印を思い出した。

古い看板。
沢の音。
右に曲がる長いカーブ。

ゆっくり進んだ。

ライトの先に、不自然な雪の盛り上がりが見えた。

さとしは車を停めた。

外に出ると、風が顔を刺した。
雪は、地面からも空からも吹いてくるようだった。

懐中電灯を持ち、道の端へ近づく。

雪に半分消えたタイヤの跡。
崩れた路肩。
木の幹に残った新しい傷。

さとしの胸が嫌な音を立てた。

「鉄平!」

叫んだ。

風が声をさらっていった。

もう一度叫んだ。

「鉄平!」

返事はなかった。

さとしは雪の斜面を下りた。
足が沈む。
膝まで埋まる。
転びそうになる。
それでも進んだ。

懐中電灯の光が、何かを照らした。

白く埋もれかけた車体。
曲がったフロント。
木にもたれるように止まった車。

鉄平の車だった。

さとしは走ろうとして、雪に足を取られた。
転びながら近づいた。

窓を叩いた。

「鉄平!」

中に、人影があった。

反応がない。

さとしはもう一度、拳で窓を叩いた。

「鉄平!起きろ!」

ゆっくり、鉄平のまぶたが動いた。

焦点の合わない目が、さとしを見た。

さとしは泣きそうな顔で笑った。

「おい」

声が震えた。

「コーヒー、冷めるぞ」

鉄平の唇が、少しだけ動いた。

声にはならなかった。

でも、笑おうとしたのがわかった。

さとしはドアをこじ開けようとした。
雪と車体の傾きで動かない。

スコップで雪を掘った。
手袋の中まで冷たくなった。
何度も滑った。
それでも掘った。

ようやく助手席側から体を入れ、鉄平の身体を支えた。

「痛いとこは」

鉄平が小さく言った。

「足……たぶん」

「しゃべれるか」

「……寒い」

「よし。しゃべれるなら、生きてる」

さとしはそう言いながら、声が震えていることに気づいていた。

鉄平を無理に動かすのは危なかった。
けれどこのままでは、体温が落ちていく。

さとしは毛布をかけ、手袋を外して鉄平の頬に触れた。

冷たかった。

「今からルビコンまで行く。ゆっくりや。寝るな」

鉄平は薄く目を開けた。

「悪いな……」

さとしは怒ったように言った。

「謝るな。眠るな。しゃべっとけ」

「何を……」

「次のコーヒー、どこで飲むかや」

鉄平は息だけで笑った。

さとしは鉄平の腕を肩に回した。

雪の中、少しずつ進んだ。

たった数十メートルが、果てしなく遠かった。
足元は沈み、風は横から押し、鉄平の体重は肩に重かった。

それでも、ルビコンのライトが見えた。

黄色い光が、雪の中に浮かんでいた。

その光は、家の灯りのようだった。


ルビコンの中は、暖かかった。

さとしは鉄平を助手席に座らせ、毛布をかけた。
ヒーターを強くした。
水筒の温かい飲み物を少しずつ飲ませた。

鉄平の手は震えていた。

「俺の車なら……大丈夫やと思ってた」

さとしは前を向いたまま言った。

「車が悪かったんやない」

ワイパーが雪を払っていた。

「雪を、なめたらあかんかっただけや」

鉄平は目を閉じた。

「……情けないな」

「情けなくない」

さとしは、少し間を置いて言った。

「お前の車は、お前を途中まで連れてきた」

鉄平は目を開けた。

「俺の車は、そこから先を迎えに来ただけや」

車内に、しばらく何の音もなかった。

ヒーターの音。
ワイパーの音。
風が車体を叩く音。

鉄平は窓の外を見た。

白い闇の中で、自分の車はもう見えなかった。

あれほど信じていた車だった。
どこへでも行けると思っていた車だった。

でも今、自分を包んでいるのは別の車だった。

さとしのルビコン。

大きくて、無骨で、普段は少し大げさに見えた車。

その車が今、鉄平の命を温めていた。

さとしは消防と作業所に連絡を取った。
場所を伝えた。
すぐに下るのは危険だと言われた。

それでも、鉄平を事故車の中に戻すわけにはいかなかった。

ルビコンは、ゆっくり動き出した。

一気に走るのではない。
雪を確かめながら、少しずつ。
滑らないように。
埋まらないように。
戻れなくならないように。

さとしは一言も「大丈夫」と言わなかった。

大丈夫かどうかなど、誰にもわからなかったからだ。

ただ、進んだ。

鉄平は何度も眠りかけた。

そのたびに、さとしが声をかけた。

「鉄平」

「……ん」

「次のコーヒー、何飲む」

「……いつもの」

「いつものって何や」

「……苦いやつ」

「お前、味わかってへんやろ」

「……うるさい」

さとしは笑った。

笑いながら、目の奥が熱くなった。

雪の道は長かった。

けれど、ライトの先に作業所の灯りが見えた時、
さとしは初めて息を吐いた。

人の声がした。
作業所の人が走ってきた。
救急車の赤い光が、雪の中でにじんでいた。

鉄平は運ばれていった。

さとしは、その場に立ったままルビコンを見た。

フロントには雪がこびりつき、ボディには小さな傷が増えていた。
泥と雪で、いつもの黒い姿は汚れていた。

それでも、その車はそこにいた。

白い闇の中から、友達を連れて帰ってきた車として。


鉄平が病院で目を覚ました時、朝になっていた。

窓の外は白かった。

天井の蛍光灯がまぶしかった。
左足は固定され、身体のあちこちが痛んだ。

横を見ると、椅子でさとしが眠っていた。

上着はまだ少し湿っていた。
手には小さな切り傷があった。
顔は疲れきっていた。

鉄平はしばらく、何も言えなかった。

窓の外の駐車場に、ルビコンが停まっていた。

雪で汚れ、泥で汚れ、
それでも朝の光の中に、静かに立っていた。

鉄平は、あの車を初めてちゃんと見た気がした。

今までは、少し大げさな車だと思っていた。

街中で乗るには大きい。
燃費もよくない。
そこまで必要あるのかと思っていた。

でもその夜、あの車は山を楽しむためにあったのではなかった。

誰かのところへ向かうためにあった。
誰かを置いていかないためにあった。
誰かの「帰ってきたらな」を、本当に帰ってこさせるためにあった。

さとしが目を覚ました。

「あ、起きたんか」

鉄平は小さくうなずいた。

「……悪かった」

さとしは目をこすりながら言った。

「それ、もう聞いた」

「助かった」

「それも、あとで何回でも聞く」

鉄平は少し笑った。

痛みで顔がゆがんだ。

「コーヒー……」

さとしが顔を上げた。

「ん?」

「おごるわ」

さとしは、少しだけ黙った。

それから笑った。

「一杯で済むと思うなよ」

鉄平も笑った。

その笑い声は小さかった。
でも病室の白い空気の中で、確かに聞こえた。


春になった。

雪野沢町の山道には、もう雪はなかった。

道路脇には、ところどころ折れた枝が残っていた。
あの日の事故現場には、新しいガードレールがつけられていた。

鉄平の車は、廃車になった。

悔しくないと言えば嘘になる。

何年も乗った車だった。
仕事にも、買い物にも、遠出にも使った車だった。
あの夜、雪に負けたように見えた車だった。

けれど鉄平は、そうは思わないようになっていた。

あの車は、途中まで自分を運んでくれた。
最後まで守りきれなかったかもしれない。
でも、あの車があったから、あの場所まで行けた。
あの車があったから、仕事を終えられた。
あの車があったから、さとしが自分を見つける場所があった。

車は、勝つためだけにあるのではない。

人を運ぶ。
荷物を運ぶ。
時間を運ぶ。
そして時々、人の過信まで運んでしまう。

それでも車は、黙って走る。

運転する人間が間違えても、
車は最後まで、その人間を裏切ろうとはしない。

鉄平は、それを思うようになった。


ある午後、二人はまた、あの喫茶店にいた。

同じ席だった。

窓の外には、さとしのルビコンが停まっていた。

雪はもうない。
春の光が、角ばったボディに当たっていた。

けれどよく見ると、フロントフェンダーのあたりに小さな傷が残っていた。

鉄平はそれを見て言った。

「直さんのか」

さとしはコーヒーを飲みながら言った。

「どれ」

「あの傷」

さとしは窓の外を見た。

しばらく黙っていた。

そして言った。

「直さん」

「なんで」

さとしは少し笑った。

「あれは、道に負けた傷やない」

鉄平は黙った。

さとしは続けた。

「お前を見つけた時の印や」

鉄平は、何も言えなくなった。

店の中には、いつものコーヒーの匂いがしていた。
隣の席では、知らない人が新聞を読んでいた。
窓の外では、普通の車が普通に通り過ぎていった。

何も特別な午後ではなかった。

でも鉄平にとって、そのコーヒーは特別だった。

さとしが言った。

「で、今日の支払いは?」

鉄平は財布を出した。

「俺のおごりや」

「一杯だけか?」

「一生分でも足らんけどな」

さとしは笑った。

鉄平も笑った。

二人は、あの夜の話をあまりしなかった。

助けた方も、助けられた方も、
大事すぎることは案外、軽く話せないものだった。

ただ、窓の外にはルビコンがいた。

大げさで、無骨で、燃費もよくなくて、
街中では少し持て余すような車。

けれど鉄平にはもう、その車が違って見えていた。

あれは、雪に勝った車ではなかった。

山を征服した車でもなかった。

白い闇の中で、
友達の名前を思い出した男を、
もう一人の男のもとへ運んだ車だった。


ジープ・ラングラー ルビコン。

それは、強さを見せびらかすための車ではなかった。

少なくとも、あの夜のさとしにとっては違った。

誰かを助けるために、
自分も怖いと思いながら、
それでも前へ進むための車だった。

車には、限界がある。

どんな車でも、雪を完全には支配できない。
どんなタイヤでも、闇を消すことはできない。
どんな四輪駆動でも、人間の過信までは救えない。

けれど、車にしかできないこともある。

人が「行く」と決めた時、
その心を、現実の道の上へ連れていくこと。

誰かのもとへ向かいたいという思いを、
風と雪と暗闇の中で、少しずつ前へ進めること。

あの夜、ルビコンは雪に勝ったのではなかった。

白い闇を越えて、
ひとりの友達を、
もうひとりの友達のところへ連れて行った。

そして春になっても、
その小さな傷を残したまま、
喫茶店の窓の外に静かに停まっていた。

まるで、こう言っているように。

また誰かが帰ってこられなくなったら、
その時は、迎えに行く。

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