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鉄と記憶 第五話|トヨタ・カローラワゴン好きなものを、何も言わずに

子どもの頃、なぜか好物が出る夜があった。

学校で嫌なことがあった日。
友達とうまくいかなかった日。
先生に怒られて、帰り道で泣くのをこらえた日。
テストの点を見せたくなくて、ランドセルがいつもより重く感じた日。

そういう日は、家に帰っても、うまく「ただいま」が言えなかった。

玄関の戸を開ける音が、いつもより小さかった。
靴を脱ぐのに、少し時間がかかった。
ランドセルを置く音だけが、妙に大きく響いた。

母は台所から顔を出す。

「おかえり」

それだけだった。

「どうしたん」

とは聞かなかった。

居間では父が新聞を読んでいた。
けれど、新聞の向こうでこちらを見ているのが、子どもにも少しだけわかった。

しばらくすると、母が冷蔵庫を開ける音がした。

「あ、ちょっと足りんもんあるわ」

父が新聞をたたむ。

「俺、行ってくる」

「ええよ、私行くし」

「ついでや」

何のついでなのか、子どもの頃の彼にはわからなかった。

父はキーを取って外へ出る。
家の前で、白いトヨタ・カローラワゴンのエンジンがかかった。

低くもない。
力強くもない。
どこにでもある、普通の車の音だった。

少し頼りないその音が、夕方の道へ遠ざかっていく。

三十分ほどして父が戻ると、荷室にはスーパーの袋があった。

鶏肉。
卵。
じゃがいも。
玉ねぎ。
小さなプリン。

父はそれを台所に置くと、何も言わずに居間へ戻った。

母は袋の中を見て、少しだけ父の方を見る。
父はもう一度、新聞を広げていた。

その日の夕飯は、だいたい彼の好きなものだった。

からあげ。
カレー。
オムライス。
少し甘い卵焼き。
じゃがいもが大きめに残った肉じゃが。

食卓に座ると、母はいつも同じように言った。

「今日は、たまたまこれにしたんよ」

子どもだった彼は、それを本当にたまたまだと思っていた。

今日は好物や。
ついてるな。

それくらいにしか思わなかった。

父がなぜ夕方に車を出したのか。
母がなぜ「たまたま」と言ったのか。

その意味を知るのは、
ずっと後になってからだった。


家の前のカーポートには、いつも白いカローラワゴンが停まっていた。

古い車だった。

速そうでもない。
高そうでもない。
友達に自慢するような車でもない。

荷室には、買い物かごが積まれていた。
古い傘が一本。
少し破れた軍手。
父が仕事で使う小さな道具箱。
灯油を買いに行く時のポリタンク。
それから、スーパーの袋。

彼はその車を、特別好きだったわけではない。

もっとかっこいい車がよかった。
友達の家のミニバンの方が広く見えた。
テレビに出てくるスポーツカーの方が、ずっとすごく見えた。

父のカローラワゴンは、ただの家の車だった。

けれど、その「ただの車」は、夕方になるとよく家を出た。

母の小さな一言で。
父の「ついでや」という短い返事で。

そして戻ってくる時には、必ず何かを積んでいた。

食材。
日用品。
時々、彼の好きな小さなお菓子。

その時は、それが愛情だとは思わなかった。


小学校の時、運動会のリレーで転んだことがあった。

バトンを持ったまま、派手に転んだ。

膝から血が出た。
順位は落ちた。
クラスの何人かは、何も言わなかった。

その何も言わない感じが、子どもにはつらかった。

家に帰ると、母は膝の傷を見た。

「痛かったな」

それだけ言った。

夕方、父のカローラワゴンが家を出た。

その夜は、からあげだった。

父はテレビを見ながら言った。

「よう食べろ。肉食べたら治る」

彼はむっとした。

「肉で膝は治らんやろ」

父は笑った。

「気持ちは治るやろ」

その時は、くだらないことを言う父だと思った。

でも、皿の端にあるからあげは、彼の分だけ一つ多かった。


中学の時、友達とけんかをした。

理由は今思えば、しょうもないことだった。
けれどその時は、世界が終わったような気がした。

誰にも話さず、部屋に入った。
母が呼びに来ても、返事をしなかった。

しばらくして、家の前でカローラワゴンのエンジン音がした。

夜になって食卓へ行くと、オムライスがあった。

ケチャップで、少し曲がった字が書いてあった。

「元気」

彼は母に聞いた。

「これ何」

母は少し笑った。

「失敗した」

父は黙って味噌汁をすすっていた。

彼は文句を言った。

「字、へたすぎやろ」

父が言った。

「食べたら消えるんやから、ええやろ」

彼は少し笑ってしまった。

笑ったことが悔しくて、下を向いて食べた。

オムライスは、少し甘かった。


高校の時、初めて本気で好きだった人に振られた。

家族には言えなかった。

言えるわけがなかった。

帰り道、空がやけに遠く見えた。
家の近くまで来ても、中に入りたくなかった。

しばらく家の前で立っていると、白いカローラワゴンが帰ってきた。

運転席の父と目が合った。

父は何も聞かなかった。

ただ、窓を少し開けて言った。

「乗るか」

彼は黙って助手席に乗った。

車は家には戻らず、そのまま少し遠回りした。

父は好きな子のことも、学校のことも、泣きそうな顔の理由も聞かなかった。

コンビニの駐車場に車を停め、肉まんを二つ買ってきた。

「食うか」

「いらん」

「ほな、置いとく」

ダッシュボードの上に置かれた肉まんの袋から、湯気が出ていた。

しばらくして、彼は黙って食べた。

父は前を向いたままだった。

その日の夕飯は、カレーだった。

母はいつものように言った。

「今日は、たまたまカレーにしたんよ」

彼は、たまたまだと思った。

本当に、そう思っていた。


やがて彼は家を出た。

大学へ行き、就職し、結婚した。

自分の家族ができると、実家は少し遠くなった。

悪気があったわけではない。

ただ毎日が忙しかった。

仕事。
子どもの保育園。
熱を出した夜。
住宅ローン。
休日の買い物。
眠れないまま迎える朝。

両親に電話をする回数は、だんだん減った。

母からは時々、野菜や米が送られてきた。

箱の中には、必ず子どもの好きなお菓子が一つ入っていた。

頼んだわけではない。
けれど入っていた。

電話で母は言った。

「孫ちゃん、それ好きやろ」

彼は笑って言った。

「よう覚えてるな」

母は言った。

「覚えてるよ」

その言葉の重さを、彼はまだ知らなかった。


父が先に倒れた。

その日、彼は母に電話で、仕事が終わったら少しだけ実家へ寄ると伝えていた。

特別な用事があったわけではない。
子どもの顔を見せて、夕飯を食べて帰る。
それくらいのつもりだった。

母は電話の向こうで言った。

「ほな、晩ごはん食べていき」

その声を、父もそばで聞いていたらしい。

その日の夕方、父はいつものように白いカローラワゴンでスーパーへ行った。

カレー用の肉。
じゃがいも。
玉ねぎ。
人参。
それから、小さなプリン。

母の話では、父は帰ってくると、スーパーの袋を台所に置いて、少しだけ笑ったらしい。

「あいつ、カレーやったら食べるやろ」

そう言ってから、居間で横になった。

そして、その夜、父は倒れた。

母から電話が来た時、彼は実家へ向かう準備をしているところだった。

「お父さんが倒れた」

そのまま病院へ向かった。

病室に着いた時、父はもうほとんど話せなかった。

ベッドの横に、母が座っていた。

母は小さく言った。

「お父さんな、あんたが今日帰ってくるって聞いて、スーパー行ってな」

「俺が帰るって言うたから?」

「うん。カレーにするって」

彼は言葉に詰まった。

父は目を閉じていた。

病室には、機械の音だけがしていた。

数日後、父は亡くなった。

実家のカーポートには、白いカローラワゴンが残った。

葬儀が終わったあと、彼はひとりでその車の運転席に座った。

父が最後まで握っていたハンドル。
少しへこんだ運転席のシート。
ドアポケットに入った古いガソリンスタンドのカード。

何気なく助手席の足元を見ると、
くしゃっと折れたスーパーのレシートが落ちていた。

日付は、父が倒れた日の夕方だった。

そこには、母が言っていた通りの品名が並んでいた。

カレー用の肉。
じゃがいも。
玉ねぎ。
人参。
小さなプリン。

彼は、そのレシートを持ったまま動けなくなった。

父は最後まで、何も言わなかった。

ただ、帰ってくる息子のために、
いつものように買い物へ行っていた。

父の前では泣けなかった。
葬儀の時も、親戚の前では泣けなかった。

でも、助手席の足元に残っていた一枚のレシートを見た時、
涙が止まらなくなった。


母も、その二年後に亡くなった。

母は最後まで、食べ物の話をした。

「ちゃんと食べてるか」

「子どもに野菜食べさせてるか」

「忙しくても、ご飯だけは抜いたらあかんよ」

彼は少し笑って言った。

「わかってる」

母は言った。

「ほんまにわかってる?」

「わかってるって」

母は小さく笑った。

「昔から、あんたはわかってるって言う時ほど、わかってなかったから」

それが、最後に近い会話になった。

母が亡くなったあと、実家は空になった。

冷蔵庫の中も、食器棚も、押し入れも、少しずつ片づけた。

台所の引き出しから、古いメモ帳が出てきた。

母の字だった。

料理の名前と、その横に小さな文字が並んでいた。

からあげ 運動会
オムライス 友達とけんか
カレー 落ち込んで帰ってきた日
卵焼き 朝から元気なし
肉じゃが お父さんが買い物
プリン 泣いた日

別のページには、父の字で短く書いてあった。

肉 買う
卵 買う
プリン忘れるな

彼は、そのメモ帳を持ったまま動けなくなった。

偶然ではなかった。

たまたまではなかった。

あの日のからあげも。
あの日のオムライスも。
何も聞かずに出てきたカレーも。

全部、見てくれていた。

問い詰めなかっただけだった。
聞かなかっただけだった。
何も言わなかっただけだった。

父と母は、ちゃんと気づいていた。

大丈夫か、と聞く代わりに。
がんばれ、と言う代わりに。

その日の食卓に、彼の好きなものを置いてくれていた。

あの日の夕飯は、親からの返事だった。

見ているよ。
今日は食べなさい。
明日は、少しだけましになるから。

そういう返事だった。

けれど、それに気づいた時には、
父も母も、もういなかった。

ありがとう。

今なら言えるのに。

もう言えなかった。


白いカローラワゴンは、しばらく実家の前に残っていた。

売ることもできた。
処分することもできた。

けれど彼は、すぐには手放せなかった。

運転席に座ると、父の匂いが残っている気がした。
荷室を開けると、スーパーの袋の音が聞こえる気がした。
助手席に座ると、高校の日の肉まんの湯気を思い出した。

ある日、彼はカローラワゴンを動かした。

久しぶりにエンジンをかけた。

少し頼りない音だった。
でも、ちゃんと目を覚ました。

彼は近所のスーパーへ行った。

父がよく行っていたスーパーだった。

駐車場に車を停める。

古い白いワゴンは、今の車たちの中で少し小さく、少し古く見えた。

彼は店内に入った。

父のレシートに並んでいた品名を、もう一度思い出した。

カレー用の肉。
じゃがいも。
玉ねぎ。
人参。
それから、小さなプリン。

父が最後に選んだものを、
自分の手でもう一度、同じようにかごへ入れてみようと思った。

肉売り場の前で足が止まった。

父も、ここに立ったのだろうか。

今日はあいつが帰ってくる。
カレーにしたら食べるやろ。
プリンも入れといたろか。

そんなことを考えながら、
このスーパーの通路を歩いていたのだろうか。

じゃがいもを選ぶ。
玉ねぎを入れる。
人参を取る。
最後に、小さなプリンをひとつ入れる。

買い物かごの中を見た時、涙が出そうになった。

それは、ただの夕飯の材料だった。

けれど父にとっては、
帰ってくる息子を迎えるための準備だった。

彼はレジで袋を受け取り、カローラワゴンの荷室に積んだ。

その瞬間、胸の奥で何かが静かにほどけた。

この車は、ただの古いワゴンではなかった。

父と母が、言葉にできなかったものを、
何度も家まで運んできた車だった。


季節が変わった。

彼の子どもは大きくなっていた。

ある日、学校から帰ってきた子どもの声が、いつもより小さかった。

「ただいま」

それだけ言って、部屋に入った。

何かあったのか。

聞こうとした。

誰かに何か言われたのか。
友達とうまくいかなかったのか。
大丈夫か。

けれど、言葉は出なかった。

自分にも、ああいう顔で帰ってきた日があった。

その時、親は何も聞かなかった。

でも、見ていた。

彼は車のキーを取った。

今の車は、もうあの白いカローラワゴンではない。

それでもスーパーへ向かう道で、父のことを思い出していた。

夕方の道。
ハンドルを握る父。
助手席の足元に落ちていたレシート。
荷室に積まれたスーパーの袋。
台所で袋を開ける母。

スーパーで、子どもの好きなものを買った。

鶏肉。
卵。
小さなプリン。

帰って、からあげを作った。

母ほど上手ではなかった。
形は不ぞろいで、少し焦げた。

それでも皿に盛って、食卓に出した。

子どもが部屋から出てきた。

「今日、からあげ?」

彼は言った。

「たまたまや」

言った瞬間、自分の声が母に似ていることに気づいた。

子どもは席に座った。

何も話さなかった。

彼も聞かなかった。

ただ、皿を少し子どもの方へ押した。

「食べ」

子どもは小さくうなずいた。

ひとつ食べた。
もうひとつ食べた。

しばらくして、子どもが言った。

「……うまい」

それだけだった。

彼はうなずいた。

「そうか」

それだけ返した。

胸の奥で、何かが熱くなった。

ありがとう。

今なら言えるのに。

父に。
母に。

でも、もう言えなかった。

電話もできない。
実家に行っても、台所には誰もいない。
カーポートに白いカローラワゴンも、もうない。

ありがとうは、間に合わなかった。

彼は、子どもに見られないように、
少しだけ横を向いた。

食卓の上では、
まだ、からあげの湯気が静かに上がっていた。


そのあと、彼は白いカローラワゴンを手放した。

最後の日、荷室を開けた。

古いゴムマットには、細かな傷がいくつも残っていた。

スーパーの袋。
灯油のポリタンク。
父の道具箱。
雨の日の傘。
子どもの頃の荷物。
帰省した日の鞄。

そこには、家族の暮らしが積まれていた。

車を見送る時、彼は思った。

この車は、何も言わなかった。

父のように。
母のように。

ただ夕方になると走り出し、
必要なものを積んで、家へ帰ってきた。


トヨタ・カローラワゴン。

それは、速さを誇る車ではなかった。
憧れを集める車でもなかった。
時代を変えた一台として語られることも、あまりないかもしれない。

けれど、あの家では違った。

それは、父が夕方にスーパーへ向かう車だった。
母の献立を、家まで運ぶ車だった。
子どもの沈黙を、問い詰めずに受け止めるための車だった。

荷室には、ただの食材が積まれていた。

鶏肉。
卵。
じゃがいも。
玉ねぎ。
小さなプリン。

でも本当は、そこに積まれていたのは、
父と母が言葉にできなかった愛情だった。

好きなものを、何も言わずに。

それが、あの家の「大丈夫」だった。

ありがとうは、もう届かない。

けれど、あの日々は終わっていなかった。

父と母がしてくれたことは、
今夜、自分の手から、
子どもの皿へ、そっと移っていた。

食卓の上では、
からあげの湯気が静かに上がっていた。

そして彼は、ようやく知った。

自分は、ずっと大切にされていたのだと。

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