鉄と記憶 第六話|地方路線バス 最後の一便
小学生の頃、彼は毎朝、同じバス停でバスを待っていた。
家から少し歩いたところにある、小さなバス停だった。
屋根はなかった。
丸い標識が一本立っているだけだった。
雨の日は傘をさして待った。
冬の朝は、息を白くしながら待った。
夏はランドセルの背中が汗で濡れて、学校へ着く前から少し嫌になった。
それでも、遠くの角を曲がって、あの音が聞こえてくると、少しだけ安心した。
古いディーゼルエンジンの音。
少し黒い煙。
白と青の、古い路線バス。
当時の彼には、そのバスがとても大きく見えた。
車体は高く、窓も大きく、前に立つと見上げるほどだった。
まるで小さな家が、道の上を走ってくるように思えた。
その路線は、前のドアから乗って、前のドアから降りる、小さな町のワンマンバスだった。
中ドアはなかった。
乗る時も、降りる時も、運転席のすぐ横を通る。
だから運転手には、乗ってくる人の顔も、降りていく人の表情も、よく見えた。
ドアが開く時には、ぷしゅう、と空気の抜ける音がした。
床は高かった。
小さな彼は、ランドセルを揺らしながら、少しよじ登るようにして乗った。
運転席には、いつも同じ人がいた。
田村さん。
その頃の田村さんは、四十歳くらいだったと思う。
帽子を少し深くかぶり、きちんと制服を着て、前を向いたまま、でも乗ってくる人をちゃんと見ていた。
彼が乗ると、田村さんはいつも言った。
「おはよう」
彼は小さな声で返した。
「おはようございます」

前から三列目の窓側。
それが、彼の席だった。
運転席が少し見えて、前の道も少し見えて、窓の外には田んぼと川と、古い商店が流れていく。
バスは彼を学校まで運んだ。
毎朝、毎朝。
雨の日も。
寒い日も。
運動会の日も。
テストの日も。
その頃の彼にとって、路線バスは特別な乗り物ではなかった。
ただ、朝に来て、学校まで連れて行ってくれるもの。
それだけだった。
中学生になると、制服が変わった。
ランドセルは学生鞄になり、靴も少し大人っぽくなった。
部活の道具が増え、朝の荷物は小学生の頃よりずっと重くなった。
バスも、いつの間にか新しくなっていた。
昔のように床が高くない。
車内の灯りも明るい。
座席の柄もきれいで、降車ボタンの音も少し軽くなった。
最初に見た時、彼は少し驚いた。
「前のバス、どこ行ったんやろ」
友達にそう言うと、友達は言った。
「知らん。こっちの方がええやん」
確かに、新しいバスの方が乗りやすかった。
ドアも静かに開いた。
窓も大きかった。
雨の日に車内が曇ることも少なかった。
けれど、彼は少しだけ思った。
前のバスより、狭くなった気がする。
小学生の頃に乗っていた古いバスは、もっと大きかったように思えた。
天井も高く、通路も広く、前から三列目の窓側は、子どもひとりには少し大きすぎるくらいの場所だった。
でも今のバスは、座席も窓も通路も、少しだけ身体に近かった。
自分が大きくなったから、そう感じるのだと思っていた。
けれど運転席を見ると、そこにはやっぱり田村さんがいた。
田村さんは、彼の新しい制服と学生鞄を見て、少しだけ笑った。
「今日から中学か」
彼はうなずいた。
「……はい」
「ランドセルと違うと、えらい大人に見えるな」
彼は急に恥ずかしくなった。
「別に」
そう返して、定期券を見せた。
田村さんは笑った。
「返事は小さいままやな」
中学生の彼は、そういうことを言われるのが嫌だった。
子ども扱いされたくなかった。
だからわざと前の方には座らず、後ろの席に座るようになった。
友達と話す。
部活の愚痴を言う。
先生の悪口を言う。
好きな子がどのバス停で降りるのか、少し気にする。
そういう毎日が、少し続いた。
けれど、中学二年の冬だった。
彼は、学校へ行くのが嫌になった。
はっきりした理由がひとつあったわけではない。
友達とうまくいかなくなった。
部活でも居場所がなくなった。
教室に入ると、誰かの笑い声が自分のことのように聞こえた。
朝、制服に袖を通すだけで、胸の奥が重くなった。
親には言えなかった。
「行きたくない」と言えば、何があったのか聞かれる。
説明しようとしても、うまく言葉にできない。
だから彼は毎朝、黙って家を出た。
いつものバス停まで歩いた。
けれど、バス停に着いても、乗ると決められない日があった。
学校へ行くのが怖い。
でも家へ戻るのも怖い。
どちらにも行けないまま、彼はバス停の前で立っていた。
遠くから、バスの音が近づいてくる。
角を曲がる。
白と青のバスが見える。
バスは、いつものように停まった。
前のドアが開いた。
田村さんが、前を向いたまま言った。
「乗るか」
彼は答えられなかった。
足が動かなかった。
田村さんは急かさなかった。
ただ、ドアを開けたまま、少し待っていた。
彼は小さく首を振った。
「……わからん」
自分でも驚くほど小さな声だった。
田村さんは、彼の方をちらっと見た。
そして言った。
「ほな、中で考えたらええ」
彼は顔を上げた。
「乗ったら、学校行かなあかんやん」
田村さんは前を向いたまま言った。
「ほな、乗ってから考えたらええ」
それだけだった。

彼は、ゆっくりバスに乗った。
前から三列目の窓側。
小学生の頃と同じ席に座った。
バスは走り出した。
窓の外に、田んぼが流れていく。
川が流れていく。
見慣れた商店が流れていく。
学校が近づくにつれて、胸が苦しくなった。
降りたくない。
でも、降りなければいけない。
そう思っていた。
学校前の停留所に着いた。
前のドアが開いた。
田村さんはミラーを見ながら言った。
「降りるか」
彼は黙っていた。
田村さんは続けた。
「今日は終点まで乗っててもええぞ」
その言葉で、彼の喉の奥が詰まった。
学校へ行け、と言われなかった。
何があった、と聞かれなかった。
頑張れ、とも言われなかった。
ただ、逃げてもいい場所を、少しだけ残してくれた。
彼は立ち上がった。
「……降ります」
田村さんは小さくうなずいた。
「ほな、気ぃつけてな」
彼は前のドアから降りた。
学校へ向かって歩いた。
その日、教室に入れた。
何が変わったわけでもない。
友達との距離も、部活の空気も、すぐには変わらなかった。
けれどその朝、彼は知った。
どうしても無理なら、終点まで乗っていてもいい。
そう思えるだけで、少しだけ息ができた。
それから何度も、彼は同じバスに乗った。
降りられる日もあった。
降りるのに時間がかかる日もあった。
学校前で立ち上がれず、ひとつ先の停留所まで乗ってしまった日もあった。
そんな日でも、田村さんは何も聞かなかった。
「何があったんや」
とは言わなかった。
「学校行かなあかんやろ」
とも言わなかった。
ただ、ドアを開け、ミラーを見て、彼が立ち上がるまで少しだけ待ってくれた。
その待ち方が、彼には救いだった。
大げさな優しさではなかった。
励ましでもなかった。
毎朝、同じ時間に来て、同じ声で言う。
「おはよう」
それだけだった。
けれど、その「おはよう」があったから、彼は次の日もバス停へ行けた。
高校生になる頃には、中学に上がった時の新しいバスにも、すっかり慣れていた。
行先表示が見やすいことも。
ドアの音が静かなことも。
座席の柄が前より明るいことも。
小学生の頃に見上げていた大きなバスの記憶は、少しずつ遠くなっていた。
高校は少し遠かった。
朝のバスには、同じ制服の生徒が何人も乗った。
彼は窓の外を見るふりをして、イヤホンを耳に入れていた。
中学の頃のことは、誰にも話さなかった。
田村さんにも、話さなかった。
ただ、学校前の停留所で降りる時、田村さんが時々言った。
「今日も行けたな」
それだけだった。
彼は、少しだけ笑って返すようになった。
「まあ」
雨の日。
部活の帰りに、彼はびしょ濡れでバスに乗った。
傘を忘れていた。
制服の肩から水が落ち、靴下まで冷たかった。
車内には客が少なかった。
彼は後ろの方に座った。
しばらくすると、車内が少し暖かくなった。
運転席の方から、暖房の風が流れてきた。
彼は顔を上げた。
田村さんは前を向いたままだった。
何も言わなかった。
彼も何も言わなかった。

ただ、濡れた袖を少しだけ握った。
バスの窓に、街灯の光が流れていた。
その日も、バスは彼を家の近くまで運んだ。
大学生になる時、彼は町を出た。
駅まで父に送ってもらった。
大きな鞄を二つ積んで、車の後席に座った。
いつものバス停の前を通った。
丸い標識は、まだそこにあった。
少し錆びていた。
時刻表の紙は新しくなっていた。
ちょうどその時、バスが来た。
運転席には、田村さんがいた。
彼は車の窓からそれを見た。
バスはいつものように停まり、前のドアを開け、何人かを乗せた。
父の車は、その横を通り過ぎた。
その時、彼は特に何も言わなかった。
これから始まる新しい生活のことで頭がいっぱいだった。
下宿。
大学。
知らない町。
新しい友達。
アルバイト。
バスのことは、すぐに忘れた。
正確に言えば、忘れたつもりでいた。
社会人になると、彼は車を買った。
自分の車で出勤し、自分の車で帰った。
雨の日も、暑い日も、夜遅くなった日も、バス停で待つことはなくなった。
実家に帰る時も、車だった。
バス停の前を通ることはあった。
けれど時刻表を見ることはなかった。
そこに誰が並んでいるのかも、あまり気にしなかった。
町は少しずつ変わっていった。
駄菓子屋が閉まった。
本屋がなくなった。
駅前のスーパーが移転した。
小学校の児童数が減った。
商店街のシャッターが増えた。
バスの本数も、少しずつ減っていった。
朝の便が減り、昼の便が減り、夕方の便もいつの間にか少なくなった。
母が電話で言ったことがあった。
「あんたが乗ってたバスな、今はほんま少ないで」
彼は何気なく答えた。
「まあ、みんな車やしな」
それだけだった。
その言葉を言った自分のことを、あとになって彼は少しだけ恥ずかしく思うことになる。
ある年の冬、彼は久しぶりに平日の昼間、実家へ帰った。
車を修理に出していて、代車もすぐには用意できなかった。
駅から実家まで、タクシーに乗るつもりだった。
けれど駅前に出ると、小さなバスが停まっていた。
行先表示に、懐かしい地名が出ていた。
彼の家の近くを通る、あの路線だった。
昔の大きな路線バスではなかった。
中学と高校の頃に乗っていたバスよりも、少し小さく見えた。
最初は、自分が大人になったからそう見えるのだと思った。
小学生の頃には見上げるようにして乗っていたバスを、
今はもう、少し離れて眺められるようになっていた。
そのせいで、小さく感じるのだと思った。
けれど乗り込んでみると、それだけではないことがわかった。
本当に、少し小さくなっていた。
座席の数も少ない。
通路も短い。
乗っている人の数も少ない。
町が少しずつ小さくなっていったぶんだけ、
バスもまた、小さくなっていたのかもしれなかった。
彼はなんとなく、乗ってみることにした。
前のドアが開いた。
昔のような、重たい空気の音ではなかった。
軽く、静かな音だった。
整理券を取ろうとして、機械の場所が昔と違うことに少し戸惑った。
その時、運転席から声がした。
「久しぶりやな」
彼は顔を上げた。
田村さんだった。
白髪が増えていた。
顔も少し細くなっていた。
背中も、昔より少し丸く見えた。
でも、声は田村さんだった。

彼は一瞬、言葉が出なかった。
「……覚えてくれてたんですか」
田村さんは、前を向いたまま笑った。
「毎朝、最後に走ってきよった子やろ。忘れるかいな」
車内には、他に二人しか乗っていなかった。
彼は昔と同じように、前から三列目の窓側に座った。
座ってから、自分でも驚いた。
そこを選ぶつもりはなかった。
けれど体が、勝手にその席へ向かっていた。
バスが動き出した。
窓の外の景色は変わっていた。
駄菓子屋は駐車場になっていた。
本屋は空き店舗になっていた。
田んぼの一部には新しい家が建っていた。
通学路だった道は、少し広くなっていた。
でも、川の曲がり方は同じだった。
小学校の裏の大きな木も、まだ残っていた。
商店街の古い時計も、少し遅れたまま動いていた。
彼は窓の外を見ながら、胸の奥が少し熱くなるのを感じた。
子どもの頃、毎朝この道を通った。
中学の時、降りるかどうか迷った。
高校の時、雨に濡れて座った。
大学に出る日、父の車の窓からこのバスを見た。
その全部を、自分は忘れていたつもりだった。
けれど道は、忘れていなかった。
運転席も、忘れていなかった。
バスを降りる時、田村さんが言った。
「ええ歳になったな」
彼は少し笑った。
「田村さんは、全然変わらないですね」
田村さんは首を振った。
「バスは何台も変わったけどな」
そして少しだけ間を置いて言った。
「わしも、そろそろや」
その言葉の意味を、彼はその時、深く考えなかった。
春の終わりに、町内の掲示板に紙が貼られた。
路線廃止のお知らせだった。
利用者の減少。
運転手不足。
維持の困難。
どこかで聞いたことのある言葉が並んでいた。
彼はその紙を見た時、しばらく動けなかった。
母に電話すると、母は言った。
「とうとうなくなるんやて」
「いつ?」
「来月いっぱい」
彼は黙った。
母が続けた。
「最後の日、田村さんが運転するらしいわ」
その名前を聞いた時、胸の奥が小さく鳴った。
彼は、最終運行の日に町へ帰ることにした。
特別な用事はなかった。
ただ、乗らなければいけないと思った。
最終日の夕方。
バス停には、いつもより少し人がいた。
昔、そのバスで学校へ通っていた人。
病院へ行く時に使っていたお年寄り。
買い物袋を持った女性。
カメラを持った若い人。
何となく来たような顔をしている人。
誰も大げさには話さなかった。
ただ、みんな少しだけ、バスの来る方を見ていた。
やがて、小さなバスが角を曲がってきた。
子どもの頃の古い大きなバスではなかった。
中学と高校の頃に乗っていた、明るいバスでもなかった。
社会人になって久しぶりに乗った、少し小さなバスとも違っていた。
最後に来たのは、町を巡る小さなバスだった。
子どもの頃には大きく見えたバスが、
最後には町に合わせるように、さらに小さくなっていた。
けれど運転席には、田村さんがいた。
ドアが開く。
「こんばんは」
田村さんはいつもの声で言った。
まるで、今日が最後ではないように。
彼は乗り込んだ。
整理券を取った。
前から三列目の窓側に座った。
やっぱり、その席だった。
バスはゆっくり走り出した。
車内は静かだった。
誰かが小さく咳をした。
誰かの買い物袋が、かさりと鳴った。
運賃箱の横に、小さな花束が置かれていた。
窓の外には、夕方の町が流れていた。
小学校。
閉まった本屋。
駐車場になった駄菓子屋。
新しく建った家。
昔からある神社の鳥居。
川沿いの桜並木。
バスは一つひとつの停留所に停まった。
乗る人は少なかった。
降りる人も少なかった。
けれど田村さんは、いつも通りに確認した。
右を見る。
左を見る。
ミラーを見る。
ドアを閉める。
ゆっくり発車する。
その動きは、何十年も変わらないように見えた。
彼はふと思った。
田村さんは、何人の子どもを乗せてきたのだろう。
泣きながら乗った子。
遅刻しそうに走ってきた子。
合格発表へ向かった子。
卒業式の日に乗った子。
町を出る朝、大きな鞄を抱えて乗った子。
そして、学校前で降りられずに黙っていた子。
その子どもたちは、いつか大人になり、車を買い、町を出て、バスに乗らなくなった。
自分と同じように。
でもその間も、このバスは走っていた。
誰かの朝を乗せて。
誰かの夕方を乗せて。
誰かの病院帰りを乗せて。
誰かの買い物袋を乗せて。
町が少しずつ変わっていくのを、毎日見ながら。
何も言わずに。
終点が近づいた。
車内放送が流れた。
「次は、終点。北山車庫前です」
昔からある車庫だった。
子どもの頃、終点まで乗ることはほとんどなかった。
いつも途中のバス停で降りていた。
だから終点の景色は、少し知らない場所のように見えた。
バスはゆっくり停まった。
エンジンの音が小さくなった。
田村さんがマイクを取った。
少しだけ沈黙があった。
そして、いつもの声で言った。
「終点です」
そこで一度、言葉が切れた。
田村さんは、前を向いたまま続けた。
「長い間、ご乗車ありがとうございました」
車内の誰も、すぐには動かなかった。
買い物袋を持った女性が、目元を押さえた。
後ろの席にいた男性が、窓の外を見たままうつむいた。
誰かが小さく「ありがとうございました」と言った。
彼も立ち上がった。
運賃箱に最後の運賃を入れる。
小銭の音が、いつもより大きく聞こえた。
降りようとした時、田村さんが言った。
「お前、昔からそこやったな」
彼は振り返った。
「え?」
田村さんは、前から三列目の窓側を指さした。
「そこ。小学校の時から、だいたいそこに座っとった」
彼は笑おうとした。
でも、うまく笑えなかった。
「そんなことまで、覚えてるんですか」
田村さんは少しだけ笑った。
「こっちは、毎日乗せてたんや」
それだけだった。
彼は何も言えなくなった。
田村さんは、少し間を置いて続けた。
「中学の時な」
彼は顔を上げた。
「学校前で、降りるか降りんか、よう迷っとったやろ」
息が止まった。
あの頃のことは、誰にも言っていなかった。
親にも。
先生にも。
友達にも。
もちろん、田村さんにも。
彼は小さな声で言った。
「……気づいてたんですか」
田村さんは前を向いたまま言った。
「そら、気づくわ」
そして、少し笑った。
「運転席からはな、よう見えるんや」
彼は言葉を失った。
田村さんは続けた。
「でも、乗ってきたら、それでええと思ってた」
「それで……ええ?」
「うん。今日は降りられんでも、また明日バス停に来たらええ。そう思ってた」
彼は、運賃箱の前で立ったまま動けなかった。
田村さんは、ゆっくり言った。
「あの頃のお前は、毎朝ちゃんと来てた。そんだけで、よう頑張ってたんや」
その瞬間、彼の目から涙が落ちた。
大人になってから、ずっと忘れていた朝が戻ってきた。
寒いバス停。
動かない足。
開いたままのドア。
「中で考えたらええ」と言った声。
学校へ行けた日も。
行きたくなかった日も。
降りるのに時間がかかった日も。
自分はひとりだと思っていた。
でも、ひとりではなかった。
毎朝、運転席から見てくれていた人がいた。
何も聞かずに。
何も責めずに。
ただ、ドアを開けて待ってくれた人がいた。
彼は頭を下げた。
「ありがとうございました」
声が震えた。
「ほんまに、ありがとうございました」
田村さんは前を向いたまま、少しだけうなずいた。
「気ぃつけて帰れよ」
その言い方は、昔と同じだった。
小学生の頃、バスを降りる時に聞いた声と、同じだった。
中学生の頃、学校前で聞いた声と、同じだった。
彼は前のドアからバスを降りた。

外の空気は、少し冷たかった。
振り返ると、田村さんは運転席で最後の確認をしていた。
ミラーを見る。
運賃箱を見る。
車内をゆっくり見渡す。
そして、行先表示が変わった。
回送。
その二文字が、夕方の光の中に浮かんだ。
しばらくして、エンジンが止まった。
町の中から、あの音が消えた。
毎朝聞こえていた音。
雨の日に近づいてきた音。
遅刻しそうな自分を待っていてくれた音。
学校へ行きたくなかった朝に、逃げ道を残してくれた音。
何度も新しくなり、少しずつ小さくなりながら、
それでも同じ道を走り続けた音。
彼は、静かになったバスの前で立っていた。
この町から、ひとつの帰り道が終わったのだと思った。
地方路線バス。
それは、特別な速さを持つ乗り物ではなかった。
誰かが憧れて写真を撮るような車でも、なかったかもしれない。
古くなれば新しい車両に替わった。
行先表示も、座席も、ドアの音も変わった。
床の高さも、エンジンの音も、少しずつ変わっていった。
子どもの頃には大きく見えたバスは、
彼が大人になるにつれて、少しずつ小さく見えるようになった。
最初は、自分が成長したからだと思っていた。
でも本当は、
町も、路線も、乗る人の数も、少しずつ変わっていた。
バスもまた、その町に合わせるように、
少しずつ小さくなっていった。
けれど、運転席にはいつも同じ人がいた。
そしてその人は、町の子どもたちの朝を覚えていた。
走ってきた足音を。
濡れた制服を。
黙って座った窓側の席を。
降りるかどうか迷っていた横顔を。
大きな鞄を抱えて町を出ていく背中を。
彼は、大人になってからようやく気づいた。
あのバスは、ただ学校まで運んでくれたのではなかった。
明日まで、運んでくれていた。
行きたくない朝も。
逃げ出したい日も。
誰にも言えなかった沈黙も。
全部、同じ道の上で、黙って乗せてくれていた。
バスは何度も変わった。
けれど、あの運転席だけは、
ずっと自分の町にあった。
その日、ひとつの町から、
帰り道の音が消えた。
でも彼の耳の奥には、まだ残っていた。
ぷしゅう、とドアが開く音。
「おはよう」と言う声。
そして、最後に聞いた言葉。
「気ぃつけて帰れよ」
それは、最後の一便がくれた、
町からの小さな別れの挨拶だった。

